「夢」と「希望」について僕が思うこと。
最近、とある講演でこんな風に自己紹介をした。
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僕の生まれ年は、1988年。
生まれた直後にバブルがはじけ、
いつの間にか「ゆとり世代」と呼ばれ、
大学に進学すればリーマン・ショック、
卒業寸前に東日本大震災が起きました。
そんな僕は、新卒でNPOに入り、4年目が終わろうとしています。
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先日、本屋である本を購入した。
タイトルにビビッときてつい買ってしまった、いわゆる完全な「タイトル買い」だ。
タイトルは、
希望。
そう、希望なんだ。
今日、僕がここに書き残しておきたいのは「希望」についてだ。
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「このうねりの源流は、何なのだろうか」
最近、特に中堅校前後の高校生に出会うと頻繁に思うことだ。
一見素直で真面目なのだ。
他人にも気を遣える。
もっと言えば、自分よりも誰かを優先している。
中には自分自身への関心を失くしている子もいる。
根底から聴こえてくるのは、
「失敗できない」
「どうせ無理なら流れに委ねた方が楽でしょ」
という心持ち。
いつからだろうか。
「夢」という言葉が、他人にも自分自身にも響かなくなったのは。
社会は変わる。
激しく、速く、曲がりくねって。
それは時に、目の前から色んなものを奪うかもしれない。
だから変わらないものから安心がほしい。
変わらないでいてほしい。
変わることが怖い。
だから、画一化して集団化する。
そんなことを、彼らからよく感じるのだ。
事実、マクロデータとして子ども・若者を「つながり依存」と表す調査もある。
僕自身、あの本のタイトルが『夢の地図』だったら買っていなかったな、と思うのはきっと気のせいではないはず。
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本に話題を戻そう。
内容は著者が3.11後、東北を丹念に取材したものをドキュメントノベル式に書き進んだものだ。
その中で著者は自身が2011年の成人式の際に寄稿した、あるコラムを紹介する。
著者は1991年生まれの成人たちに、言葉を投げかける。
「『人事を尽くして天命を待つ』ーーその原動力を、僕は希望と呼びたいのだ。」
「希望とは目的地ではなく、歩くことそのものの中にあるのだ」
「ぼくらは、世界に対して無力さを感じることに負けてはいけない」
※全文『91年に生まれた君へ 逆境で気づく希望の器』
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要するに、僕が彼らに感じてほしいのは「希望」なのだ。
生き抜く力とはきっと、「それでも」の力だ。
社会は変わる。
激しく、速く、曲がりくねって。
それは時に、目の前から色んなものを奪うかもしれない。
それでも、希望は、ある。
それでも、応えたいと、裏切れないと思える人が、いる。
それでも、どこかで諦め切れない自分が、いる。
少し止まってもいいから、少し道を外れてもいいから、前へ進むことを諦めないでほしい。
歩くことの中に、「希望」を見出してほしい。
夢を目指すのは怖いことだ。
叶わなかった瞬間、全てが途切れるから。
彼らに共有したいのは心のどこかで「それでも」と思える、そんな「希望」なのだ。
希望を信じて社会に身を置くことにチャレンジする勇気を僕は賞賛したい。
だから必要なのは夢の大切さや、努力や意思の大切さを語ることではない。
日々のどこかしらにある、希望のかけらを一緒に探すことなのだ。