新卒NPO職員のつぶやき。

学生時代に某塾からの内定を辞退し、教育系NPOに新卒入社。早4年目。日々駆け抜ける中での気づきを綴ります。

映画『ソロモンの偽証』が投げかけているもの ※若干のネタバレあり

どうも、僕です。

こんにちは。

 

さて、少し前ですが『ソロモンの偽証』という映画を観に行ってきました。

 

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原作は宮部みゆきさんで全6巻、映画では「前篇 事件」「後篇 裁判」の二部構成となっています。

 

原作は読んでないのですが、個人的に非常に良い映画だなと思ったので、感想とともに考察を書こうかなと思います。

 

ネタバレ含むので映画や原作をこれから見ようと思っている人は、これから先は読まない方が良いかと。笑

 

 

 

▼「ソロモン」は誰だ?

 

まず『ソロモンの偽証』というタイトルについて。

そもそも「ソロモンって誰だっけ?」という僕のような方のために下記ざっくり説明。

 

・聡明で有名な古代キリスト教の王様。悪霊を操ったという伝説もある。

・偉大な知恵者だったためソロモンに由来する偽文書が流布していたが、中世盛期以降には魔術師が悪霊を呼び出す術を記した新たな偽ソロモン文書が流布した。

 

とまあ、こんな感じです。

 

で、重要なのは「作中でのソロモンにあたる人物は誰だ?」ということ。

 

これはクリスマスの夜に死体で発見された【柏木くん】だと思います。

彼はそのミステリアスな言動、行動によって様々な登場人物の心をえぐります。

それも誰にでもある弱さを見透かし、「逃げるなよ」と言わんばかりに。

 

登場人物の中には彼の言葉が残り続け、そして彼の死や「偽告発文」騒動を発端にした学内裁判の中で何度もその弱さと向き合うことになるのです。

 

例えば、いじめを目撃しながら怖くて助けに入れなかった主人公の川野涼子のように。

歪んだ友情の末、高圧的に偽告発文に協力させ、

最終的に浅野松子が事故死する原因をつくってしまった三宅樹里のように。

 

このようにそれぞれのキャラクターの中にある、

いわば人間ならば誰にでもある弱さが、彼の存在によって浮き彫りになっていきます。

 

そしてその弱さは他者からは非常に見えにくいもので、

向き合おうとしなければ無意識のうちに捨てていってしまう感情です。

 

整理すると…

 

「ソロモン」=柏木くん

「悪霊」=それぞれの中にある弱さ

 

といった感じでしょうか。

 

映画のレビューを見ると彼に対して「あいつ、単なるイカれすぎのクズじゃね?」という批判もあるみたいですが、

それは奇抜な行動・言動の原因が描かれないためだと思います。

 

それを描いてしまうと、何だか人間くさくなり神的存在とは離れてしまうので、描けなかったのではという考察です。

 

 

▼主人公の回答から考察するメッセージとは?

「後篇 裁判」のラストで時系列が回想から現代へ戻り、

母校へ教師として赴任してきた主人公と校長先生の間で興味深いやりとりが2シーン行われます。

 

【その①】

校長「蓋をすれば見たいものだけが目に入る。思考停止でそれは楽。私はすっかりそうなってるわねえ。」

主人公「私も、そうなっちゃいました。」

 

 

【その②】

校長「その後、みんなはどうなったの?」

主人公「私たちは…、友達になりました。」

 

 

さあ、これをどう考察するか。

それぞれ次のように考えました。

 

 

その①「私もそうなっちゃいました」

=主人公自身も日常に埋没し、蓋をすることに慣れ始めた。

 またそのことを自覚している状態の暗示。

 

その②「私たちは、友達になりました」

=「普通」の中学生に戻ったということの暗示。

 

 

 

ひたすらに真実を知りたくて、

だからこそ周囲の反対があっても自分自身を貫き、

学内裁判をやりきった結果、真実に辿りついた主人公。

その主人公でさえも、日常を積み重ねていくと、

そんな煌きが埋没してしまうということ。

 

更に、それを自覚しているということは、

今も主人公は自分自身の弱さと闘いながら、

常に葛藤を持ち、揺れながら狭間を生きているということではないでしょうか。

 

 

▼誰に向けたメッセージ?

 

もちろん子どもに向けられているものでもありますが、

実はこのメッセージが一番響くのは日常に埋没し、

何だか浮かない顔をしてる大人なのではないでしょうか。

 

この映画では色んなタイプの大人(親)が描かれます。

そして、あれだけ強い主人公でさえも、悲しいかな、

大人になる過程で埋没していく可能性があるのです。

(ちなみにこの映画のキャッチコピーは「嘘つきは、大人のはじまり」…!)

 

 

だけどそれは逆説的に捉えれば、

「僕らはどちらにでもいける」という可能性を示しているのではないでしょうか。

 

別に特別に強い人間じゃなくたって、強くなることはできる。

立ち向かうべきは自分自身の弱さであり、

大切なのはそこに立ち向かうための勇気である。

それさえあれば、僕らは強くなれる。

 

だから、この映画は僕らに投げかけていると思うのです。

 

「今、あなたは、どっちいますか?日々、闘っていますか?」と。