新卒NPO職員は3年半で何を経験し、何を学んできた?【その③】※11/04追記
どうも、僕です。
少し時間が経ってしまいましたが、続きを書きたいと思います。
▼前回までの記事はコチラ▼
新卒NPO職員は3年半で何を経験し、何を学んできた?【その①】 - 新卒NPO職員のつぶやき。
新卒NPO職員は3年半で何を経験し、何を学んできた?【その②】 - 新卒NPO職員のつぶやき。
ちなみに前回「次回は社内の人たちから得た支援について書く」と書きましたが、ちょっと変更します。
前回、下記のように書きました。
カタリバというラベルがあるだけで、新卒の僕は「すごいね」と言われ続けました。
新卒でやりたいこともよく分からず、路頭に迷いそうだった自分に対して投げかけられる「カタリバが採った新卒なんだからすごいに違いない」という暗黙のメッセージ。
そして、特に何も答えられない自分。
カタリバという組織の凄さを肌で感じるとともに、
率直に、僕はそんな自分が情けなかったです。
「自分がNPOという道に辿り着いた意味は何なんだろうか?」
「楽しく仕事はしたい。事実、やり始めて楽しいとも思っている。でも自分はなぜココで仕事をするのだろう?」
毎日そんなことを考えていました。
これらがどんな風に僕の中で解決されていったのか。
そのヒントをくれたのは、皮肉にも授業で出会ったある生徒でした。
今日はそんなお話です。
▼自分は、無力だ。
ではどうすれば良いか。「何となく心に刺さっている棘」に会いに行けば良い。ニュースで見て、新聞で見て、友達に聞いて、自分で体験して、何となく許せなかったこと、納得が行かなかったこと、悲しかったこと、心動かされたこと。そうした棘に、実際に会いに行けば良いのだ。
(中略)
だから、棘に会い、棘の痛みに向き合うことによって、我々は近づけるのだ。真の問題意識に。そして一生取り組んで良いと思えるテーマに。
「心の棘」。
それでも、自分が出会った「棘」くらいはどうにかしたい。
今でも、やっぱりそう思うのです。
彼女と出会って、3年が経ちました。
正直、まだ胸は張れないなあと思います。
もっと自分を成長させないといけないし、まだまだ。
だから、そうやって、僕はまだここにいます。
いつかまた彼女に会えるなら、伝えたいことがもう一つだけ、たった一言だけ。
「ありがとう」
そう、伝えたいなあ。
【追記(2014年11月4日)】
Facebook上で数人の方からコメントいただきました。
その上で「自分が無力だ」と感じた部分について、
伝えきれなかったことがあったみたいなので追記させてください。
実は彼女の話には、後日談があります。
彼女は団体の公式掲示板の中で、ずっと不眠の悩みを僕に相談し続けていました。
そして僕は、毎日彼女が起きる時間帯に起きて「今日は調子どう?」と書き込むことだけしかできませんでした。
その時、彼女を救うには、間違いなく対話以外の力も必要だと僕は痛感したんです。
名前もない社会課題はきっと世の中にたくさんあります。
それを本気で解決したいのであれば、一つのプログラムだけやり続けても近道じゃないなと思ったんですよね。
色んな角度からの刺激やサポートが必要なんです。
だけど、今の自分はそれを変えるだけのイノベーションを起こす力を持っていない。
そういった意味で「自分は無力だ」と感じたのです。
だけどコメントしてくれた人たちが書いてくれたように、あの時間に意味がなかったとは僕も思いません。
微力だが、無力ではない。
そんなことを思いながら、今日も僕は高校に足を運んでいます。
新卒NPO職員は3年半で何を経験し、何を学んできた?【その②】
どうも、僕です。
さて前回に引き続き『リフレクティブ・マネジャー 一流はつねに内省する (光文社新書)』(中原淳・金井壽宏著)から、自分が社会人生活3年半でどんな学びを経験してきたかを振り返ります。
前回は「目先の雑用からの学び」を振り返りました。
▼前回の記事はコチラから▼
新卒NPO職員は3年半で何を経験し、何を学んできた?【その①】 - 新卒NPO職員のつぶやき。
今回はその第2回目。
テーマは「社外の人たちに出会って新人の僕は何を学習したか」。
▼人は他者との関わりから支援を得る。
『リフレクティブ・マネジャー』の中では、人は他者との関わりから支援を得て、その支援には大きく3つあるとしています。
・業務支援
・内省支援
・精神的支援
これらの支援を得るためには「関わり先」と「関わり方」が重要で、
そこから成長感を得るとのこと。
また、その「関わり先」として「職場内+社外」を持つ人は、
「視野の拡大」により成長実感得ており、自己効力感や内発的モチベーションが高いという調査結果も記載されているのです。
▼自分にとって「社外の関わり先」とは。
1年目の頃の自分には例えばどんな関わり先があっただろうか。
振り返ってみると、1年目は自分の希望もあり、学校の先生はもちろんのこと、
特に色んな方と関わらせてもらいました。
大企業において現場の最前線で活躍してるプレーヤーの方。
営業の神様みたいなアドバイザーの方。
研修講師でメシを食ってるのプロフェッショナルの方。
同じNPO業界で働いている人。
とある企業の全国人事を統括している方。
一緒にプログラム開発をした企業の方。
大学改革を本気でやろうとしている教員、職員の方。
てか、こう書いてみるとすごいな…!
まあ、新卒でNPOに入って良かったなと思うのは、こういう人たちと社会人生活のスタート期に出会えた機会が多くあったことです。
面白い仕事をしているところには、面白い人が集まるとは正にです。
▼何を感じ、何を学んだ?
こういった方々と仕事をさせていただきながら感じていたのは、大きく2つ。
①自分はどんな社会人生活を送っていきたいのか
②カタリバという組織の注目度
①については、まー諸先輩方を見ていると考える機会が沢山あって。
というのも、ギラギラ輝いてる人だけでなく、一方で仕事へのやりがいや職場での人間関係などで「なんとなく諦めてる感」を持ってる人たちも見る機会があったんですよね。
そこを色々比べたりした時にやっぱ思うわけですよ。
「俺、カッコいいオッサンになりてえ。仕事をしながらそういう風に齢をとりたい」って。
ひょんなことから新卒でNPOに入った当時の僕は、やりたいことを考えることを一度停止しました。
「就活の時にあれだけ考えてよく分からなかったんだから、今は分からないんだ」
そう割り切っていました。
だけど色んな人達に出会って、「やりたいこと」とかそういう次元を超えて、「自分は何者になりたいのだろう」って考え始めたんですよね。
そこで出た結論が「楽しく仕事しながら、カッコいいおっさんになっていく」でした。
だけど、そんな反面自分のできなさを感じることもたくさんあって。
それが実は②と関わります。
色んな相手先を回っていく中で毎度紹介をされるわけですね。
上司「カタリバ初の新卒なんですよ。面倒見てやってください。」
相手先「へー!カタリバの新卒なんですか!すごいですね!何でNPOに入ろうと思ったんですか?」
自分「え、えっと…(汗」
初めて会う人とは毎回こんな感じでした。
カタリバというラベルがあるだけで、新卒の僕は「すごいね」と言われ続けました。
新卒でやりたいこともよく分からず、路頭に迷いそうだった自分に対して投げかけられる「カタリバが採った新卒なんだからすごいに違いない」という暗黙のメッセージ。
そして、特に何も答えられない自分。
カタリバという組織の凄さを肌で感じるとともに、
率直に、僕はそんな自分が情けなかったです。
「自分がNPOという道に辿り着いた意味は何なんだろうか?」
「楽しく仕事はしたい。事実、やり始めて楽しいとも思っている。でも自分はなぜココで仕事をするのだろう?」
毎日そんなことを考えていました。
「どんな大人になっていきたいか」
「どこでそれを実現するのか」
そんな風に、僕は社外の人たちから根本的な内省支援をしていてもらったんだと思います。
さあ、そんなことを考えながら僕は複数人の上司、また部下と仕事を進めていくことになります。
その中で得たことは何なのか。
次回は「社内の人たちから得た支援」についてです。
乞うご期待。
新卒NPO職員は3年半で何を経験し、何を学んできた?【その①】
どうも、僕です。
最近、組織文化や人材育成の本を意識的に読んでいます。
今回読んだのは『リフレクティブ・マネジャー 一流はつねに内省する (光文社新書)』(中原淳・金井壽宏著)。
内容としては、内省をテーマに働く大人の学びを考察していくのですが、ビビッ!とくる言葉がありました。
それは簡単に要約すると「学びの順序を最適化することがマネジャーの仕事だ」ということ。
人は新卒で入社して仕事をし始めて、沢山のことを経験し、内省し、そして実践します。
本書の中では、その際、質の高い経験が大事で、その順番を体系的に整えられるのではないかとも書かれています。
そして、思ったのです。
「自分はここまでどんな経験をしてきたんだろう?」と。
今日は本書に書かれた内容に、自身の3年と少しの社会人生活を照らし合わせながら振り返ってみようと思います。
それにより新卒でNPOに参画した自分はどのように学習してきたか、そのヒントを探せればと思います。
▼正統的周辺参加
さあ、いきなり聞き慣れない言葉です。
これは例が必要かな。
本書の中でも書かれている「美容院」の話を引用します。
新米の美容師は店に配属するとシャンプーから始めます。
これには、下記のようなちゃんとした理由があるのだそうです。
①失敗してもお客さんに危険がない
②髪を洗いながら、人それぞれ髪の生え方や頭の形が違うことを理解できる
③「(整髪後の)完成した髪型」を知ることができる
④基礎となる手首の力を鍛えられる
小さな仕事ではあるけれど、必須のもので、また新人が仕事をする上で全体の活動を見渡せ、そして学習機会が埋め込まれている。
こんなようなことでしょうか。
▼「雑用」から組織の全体像を知る
僕の場合はどうだったか。
これは大きく2つあって、それは①電話取り②領収書の仕分けでした。
①電話取り
オフィスには毎日色んなところから電話がかかってきますが、これを真っ先に取るのが新人の役割。
例えば、学校の先生、寄付者(または寄付を希望してくださる方)、連携先の企業の担当者、ボランティア説明会に参加したい学生、他のNPOの方、オフィス什器のテレアポ、メディアの記者、、、などなど。
こういった電話を取っていくと、感じるわけですよね。
「この組織にはこんなに沢山の人が関わっているのか」って。
そうやって組織の全体像というか、組織という一つの「社会」の仕組みみたいなものを感じていくわけですね。
また、例えば寄付者の方の声を知ってプログラムづくりをするのと、
そうでないのとは使命感や責任感、取り組む姿勢に大きな差が出るのではないでしょうか。
だから僕は、インターンをする学生の子たちには率先して電話に出てほしいなと思っています。
②領収書の仕分け
これは助成金か何かの報告のために、経費精算の一部をお手伝いしたものです。
100枚近くある領収書を交通費、文具費、書籍費などの様々な分野に仕分けるのです。
まあ、傍から見れば雑用ですよね。
ただ、これをあなどってはいけないのです。
そうやって仕分けていると、組織が何にお金を使っているか何となく感じられるのです。
僕はこの2つを通して、組織の全体像を感じることができました。
新人の時に大事なのはこの「感じる」という感覚ではないでしょうか。
詳細が正しいかどうかは置いておいて、それを感じることによって目先の業務に意味付けができるようになること。
それが大事なんだと思います。
そして、業務を進めるうちにもしそれが正しいかどうか気になったら、聴きに行く。
それによって正しい知識も得られる。
そんな経験と学習をこの2つを中心に得たんだと思います。
さて、今日はここまで。
次回のテーマは「外部の人たちに出会って新人の僕は何を学習したか」です。
お楽しみに。
自己肯定感を上げるには『少年ジャンプ』が重要!?
どうも、僕です。
新幹線に揺られながら書いています。
そんな3連休初日です。
▼少年ジャンプの三大原則
さて突然ですが、みなさんは『週間少年ジャンプ』を読んでいますか?
僕は最近こそ読んでいませんが、小中学生の頃は毎週読んでいました。
(最近は連載派から単行本派に変わりました!)
僕が毎週読んでいた時に掲載していたのは、例えば最近映画にもなった「るろ剣」や、その他にも「シャーマンキング」「ホイッスル」「ROOKIES」「テニスの王子様」「地獄先生ぬ〜べ〜」「ヒカルの碁」などなど。。
ああ、挙げればキリがない…!!
最近『BAKUMAN』を(もちろん単行本で)読んで初めて知ったんですが、ジャンプの掲載マンガには三大原則があるらしいんですよ。
それが何かというと、「友情・努力・勝利」だそうです。
ジャンプのマンガにはこのどれかが必ず入っていると。
▼「親子の繋がりが自己肯定感を高める」という調査結果より
なんでそんなことを書いたかというと、下記の調査を知った時に浮かんできたんですね。
自己肯定感が高まる小・中学生 親子の会話増が影響も友人関係は不安定? | Benesse 教育情報サイト ヘッドライン
中身を要約すると、ざっくり下記の感じ。
・親子の会話は増加しており、信頼感も増加している
・それによって「自分に自信がある」という設問には49.9%と、およそ2人に1人が「はい」と答えている。これは前回の調査(2006年)よりも10%近く増加している。
また別の内閣府の調査でも「日本人の自己肯定感は自己有用感(誰かのためになっている)に左右される」ということを示すデータも出ており、どうやら「他者との繋がりが自己肯定感を左右する」と認識して良さそうです。
なるほど、確かに普段高校生や学生と接していてもそう思う場面が沢山あります。
近年学習カリキュラムの中でもPBL(Project Based Learning)やプロジェクトアドベンチャーが注目されているのを考えると、納得ですよね。
そんなことを考えていたら思ったのです。
チームで目的を目指し(友情)、
四苦八苦しながら(努力)、
ゴールまで頑張る(勝利)。
あれ?これ、ジャンプと同じじゃね?、と。
もちろん実際には途中で挫折してしまいゴールまで辿り着かない人もいます。
失敗もたくさんしますし、直後は苦しい思い出かもしれません。
だけど内省を繰り返すことによってその体験に意味付けができるようになり、それが学習となります。
そんな微妙な違いはありますが、基本的には同じストーリーなんだろうなと思います。
そしてだからこそ、ジャンプは売れるんだと思うのです。
▼繋がる「先」は間違いなく減っていく。
下記は国立社会保障・人口問題研究所が2013年1月に推計した資料です。
http://www.ipss.go.jp/pp-ajsetai/j/HPRJ2013/gaiyo_20130115.pdf
注目すべきは今後、世帯の変化です。
これも簡単にまとめると、
・共働き世帯は増え、専業主婦は減る。
・少子化に伴ない、一世帯あたりの人数は減る。(2010年:2.42人→2035年:2.20人)
・夫婦だけの世帯が増える。
・一人親世帯は2030年まで増加し続ける。(2010年:454万→2030年:565万)
といった感じになります。
もちろん「一人親世帯だから繋がりが感じられない」とは断じて言いません。
ただ、どうやら全体的に子ども・若者の「繋がる先」がこの先減っていくことが予想されます。
その中で自己肯定感を上げていくための「繋がる機会」自体が減るのではないのでしょうか。
だとすれば、「他者との繋がりを創出する仕掛け」自体にニーズが高まるはず。
というか、もう必要なのでは。
今後の学校教育、学習の場で何を元に学んでいくのか。
そのために何を仕掛けるのか。
そこが問われているなあと感じました。
最後に、僕の好きな言葉を載せて今日はおしまい。
===========
応援するっていうのは『がんばれ、がんばれ』って言うことだけじゃないの。
『ここにオレたちがいるぞ、おまえは一人ぼっちじゃないぞ』って教えてあげることなの。
===========
「ナナメの関係」を解剖してみた。
どうも、僕です。
今日の記事はカタリバで活動してるキャスト(ボランティアスタッフ)向けかもしれません。
まずは、カタリバの理事も務めてくださっている中原淳先生のブログを読んでいただきたく。
NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 与えられる「ポジション」、創り出す「立ち位置」:駆け出しマネジャーの挑戦課題
▼ポジションと立ち位置。問われているものは何か。
記事の内容としては、課長という役職における
・「ポジション=組織から与えられた公式の肩書」
・「立ち位置=職場のメンバーによって課長と認められ、その機能を十全にはたし、部下が動くこと」
について述べられています。
そして「課長のポジションは与えられるけど、立ち位置は自分でつくらなければならない」」というのがポイントだと。
いや、耳が痛いですね。笑
さて僕が注目したいのは「立ち位置をつくるために必要な要素は何か?」ということです。
業務遂行能力でしょうか?
新しい仕組みを作れる力でしょうか?
部下や上司、クライアントと信頼関係を築く力でしょうか?
それとも圧倒的な成果を上げ、自分が職場にいる存在意義を示す力でしょうか?
…きっと挙げたらキリがないのでしょう。
挙げていくと全部が大事に見えてきます。笑
▼「ナナメの関係」に当てはめると?
さて、このポジションと立ち位置。
カタリバで良く言う「ナナメの関係」に当てはめるとどうなるのでしょうか。
【「ナナメの関係」って?】
高校生にとって、保護者や先生を「縦」とするならば、友達や恋人は「横」の存在。
カタリ場プログラムで実際にコミュニケーションの担い手となるキャスト(大学生や専門学校生、若手社会人)は、そのちょうど「ナナメ」に当たります。
身近すぎる人には中々話せない本音や悩みも、親近感と憧れを持つ「センパイ」になら話せる。
そんな関係性をカタリバでは「ナナメの関係」と呼んでいます。
この「ナナメの関係」にポジションと立ち位置を当てはめて考えてみると、
▶ポジション
高校生から見ると、下記のような感じでしょうか。
「学生や社会人(「高校生」とは違うラベルを持っている人)」
「少し年上の人」
「今日しか会わない人」
そして、「キャスト」というのは正に肩書ですね。
カタリバから公式に与えられている肩書。
では、続いて立ち位置について。
▶立ち位置
これも高校生から見ると、
「信頼関係のおける人」
「この人なら不安を話しても大丈夫と安心感を持った人」
「悩んでることを一生懸命一緒に考えてくれたり、背中をそっと押してくれる人」
「自分と近い目線に立ってくれる人」
「押し付けや誘導を強制しない人」
などなど、、挙げたらキリがなさそうです。
そしてこれは個人差がありそうです。
ひとまず上記のようなことだと仮定した時、
高校生にとって単なる「センパイ」で終わらずに、
キャストという立ち位置をつくるために必要なものがどうやら存在しそうです。
▼「キャストという立ち位置」をつくるために。
さあ、課長の時と同じ問いに戻ります。
キャストという立ち位置をつくるために必要な要素は何か?
と、問いかけてみましたが、何でしょうね。笑
多分挙げればそれこそキリがないんでしょうが、一つあるとすれば自律だと僕は思います。
慣れて惰性にならず、毎回自分を律して、いかに真剣に一つひとつの場に臨めるか。
また、カタリバ以外のところでも生徒に胸を張れるような自分自身でいられるか。
高校生や学生なんてラベルなど関係なしに、ナナメの関係を築ける人。
それがキャストとしての立ち位置をつくれる人ではないでしょうか。
これを読んでるカタリバに関わるみなさん、自分に問いかけてみてください。
自分は肩書だけのキャストになってはいないだろうか、と。
▼だから必死に毎日は続く。
じゃあ、僕はというと。
何度も高校生と対話し、仕事をしながら沢山のキャストに接し、毎日言葉をかけています。
そうするとキツイときに必ず誰かの顔が浮かんできます。
「あの人にあんな言葉かけたからには、自分もここで頑張らなきゃな…」
そんな気持ちになる時が沢山あります。
自身を律しようとする時、「それでも…!」と見えない何かが自分を支えてくれています。
だからきっと、必死に毎日は続くのです。
さー、今日も仕事をがんばろう!
言葉の可能性を、それでも僕は信じたい
どうも、僕です。
久しぶりの更新となりました。
さて、今日のテーマは「言葉の可能性」です。
▼人前で話すことは、好きですか?
突然ですが、みなさんは人前で話すことは好きですか?
(ポイントは得意・苦手でなく、「好きかどうか」です。)
僕は好きです。
正確に言うと話すこと自体ではなく、言葉を通して聴いてる人から
何かこう場を支配するような「うねり」というか、
「波」のようなものが起きる瞬間が好きです。
僕は大学2年まで「日本語学」という分野を専攻していたことや、
就活時に新聞記者を目指し作文を毎日書いて時期を過ごしました。
だからか分からないけれど、仕事をし始めた今になって思うと、
他の人より言葉の取扱い方に敏感な気がしています。
どうしたら自分の気持ちが届き、伝わるのか。
そしてそこから変化の波が起こるのか。
そのための「語感」を探す行為が、たまらなく好きなのです。
ただ、一方で思うのです。
言葉の力には、限界があるとも。
▼政権交代が起きた時、僕の胸は高鳴った。
なぜそんなことを思い出したかというと、
ある小説を読んで「言葉の可能性」というワードが頭の中をぐるぐる駆け巡っているからです。
その小説とは『本日は、お日柄もよく (徳間文庫)』(原田マハ著)です。
「スピーチライター」という日本にはあまり馴染みのない職業と「政権交代を起こす選挙」をテーマとした作品です。
2009年、僕がちょうど就職活動真っ盛りの大学3年の時に、
当時僕は某民放テレビ局の選挙番組のアルバイトをしながら政権交代の瞬間を見届けました。
当時、すごく胸が高鳴ったのを覚えています。
別にどこの党に肩入れしてるわけでもないのですが、
「世の中が変わる波」のようなものに、確かに僕の心は高揚したのです。
と、まあ、こんな背景もあったせいか、当時のことを思い出しながら一気に読了。
気になる人はぜひ読んでみてくださいね。
▼100の言葉にも勝る場面が、人生にはきっとある。
とあるシーンを少しだけ紹介します。
主人公の新米スピーチライターが当選を目指す代議士候補でもあり、幼なじみでもあるパートナーが悲しみに暮れるシーンがあるのですが、そこで主人公は思うのです。
こんなとき、何を言ってあげたらいいんだろう。
何ひとつ、言葉が出てこない。
なんてちっぽけなんだろう、私。
「言葉の可能性って、何なんだろう」
頭の中に浮かんだのは、そんな疑問でした。
僕は言葉を紡ぎ織る行為が、好きです。
言葉は人が無意識に持っている諸刃の剣だけど、
操り方によっては人を救うことができるし
変化を生むことだってできると割と本気で思っています。
人生は有限だし、言葉にしないと伝わらないことも多くある。
だけど、時にどうしようもなく言葉が出てこなくなる時があります。
100の言葉よりも、ただ隣にいて話を聴いてくれるだけで救われる場面があります。
僕のこの先の人生には、言葉だけじゃどうしようもない場面がきっと沢山やってくるのでしょう。
言葉の可能性をすごく信じていると同時に、そうでないことを理解している狭間に僕はいるのです。
一方で言葉の可能性を愚直に信じながら紡いでいくことと、
一方で言葉に固執しなように自問自答し続ける葛藤を今後も歩んでいくのでしょう。
どちらも捨てたくない。
それが本音です。
だから、どちらも信じたい。
だから、言葉の可能性を、それでも僕は信じたい。
そう思うのです。
貧困が呼ぶのは「期待格差」ではないか。
どうも、僕です。
今回は、まず下記をご覧ください。
最近知った、とある「実験」のお話です。
***********
あるクラスの学生にそれぞれラットを5匹ずつとT字型の迷路を渡します。
T字の一方の腕は白、もう一方は灰色に塗ってあり、ラットは灰色に走って行ったら餌がもらえる、つまりラットを灰色側に走っていくように訓練をするのです。
学生には「ラットが上達したな」と思ったら客観的に記録してもらいます。
しかしこの実験の本当の対象はラットではなく、実は学生です。
ラットには迷路を解決できるように繁殖させた「優秀な種」と「そうでない種」があり、半数の学生には「君のラットは賢い種だ」と伝え、もう一方の学生には「そうでない種だ」とあらかじめ伝えました。
また学生には、ラットの扱い方に違いが出ると結果に影響するので注意するようにと警告までします。
お分かりの通り、実際にはそんな種はおらず、どのラットもランダムに選ばれた種です。
実験の結果、「賢い種」と思い込んでいる学生のラットの方ができが良く、
「そうでない種」と思い込んでいるラットの方が著しく出来が悪かったそうです。
そして学生の記録から「自分のラットが賢いと思っていた学生は、ラットをより優しく世話をしていた」ということが分かりました。
「取り扱いには違いないように」と注意していたにも関わらず。
***********
▼実験が示す無意識の非言語コミュニケーション
いかがですか?
これは無意識の非言語的コミュニケーションについての実験です。
実は、ラットを生徒に、そして学生を教師にして置き換えた実験事例もあります。
その場合はIQテストを使い、実際は平均的な成績の生徒だけど、
「今回はこの生徒はクラスの中で特に点数が良く、才能がある」と教師に伝えたとのこと。
結果はラットの場合と同じだったそうです。
「才能がある」と伝えられた生徒の80%は次のテストで10ポイント以上点数を上げ、
また20%は30ポイント以上点数を上げたというのです。
つまり、「才能がある」という教師のラベルが、生徒の成長を後押ししていたことが示されているのです。
大事なのは、教師自身が意識的に区別しようとしたわけではなく、
無意識のうちに起きた事実だということです。
▼子どもの貧困と「期待格差」
ここ最近、子どもの貧困についてメディアで多く取り上げられています。
「子供の貧困対策大綱」を閣議決定 親世代の学び直し推進 :日本経済新聞
低所得の家庭多い小中校に教員2千人増 文科省が方針:朝日新聞デジタル
「17歳以下の6人に1人は貧困に直面している」ことに対して、政府が方針を固めました。
僕が個人的に危機感を持っているのは、
経済的な格差が「期待格差」に繋がるのではないかということです。
青砥恭著の『ドキュメント高校中退 ーいま、貧困がうまれる場所』という本があります。
ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所 (ちくま新書)
埼玉県の高校中退をテーマに、事例とデータを多く取り上げている良書だと思います。
この本の中に古い(1998年)データですが埼玉の高校生1200人にとった下記のようなアンケート調査があるので紹介します。
「(あなたは)親から期待されていると思いますか」という質問にいわゆる「進学校」の生徒たちと「底辺校」の生徒では正反対の回答がされたのである。進学校の生徒のうち、「期待されている」と答えた生徒は70%、逆に底辺校の生徒たちの60%が「期待されていない」と答えていた。
この結果に、私は「貧困は子どもへの期待や愛され方にまで格差をつくるのか」とショックを受けた。(中略)期待されていない、愛されていないと感じる子どもが一生懸命、勉強しようとか、何か頑張ろうとか、人生を前向きに考えようとするだろうか。(筆者抜粋)
底辺校には所得が低い世帯の子どもが多く通う傾向があります。
つまりこのデータは、家庭の所得格差によって「子どもが期待を感じられる格差=期待格差」がついているということを示しているのです。
そして冒頭の実験を前提とすれば、
その期待は関わる人が生徒に貼るラベルや、無意識の非言語コミュニケーションによって左右される可能性が大いにあるのです。
▼僕は先生と何を語るべきか。
仕事柄、先生と打ち合わせさせていただく際に指導上の課題や生徒のもったいない部分をヒアリングすることが多くあります。
しかし今回のことを考えた時に少し自分の姿勢を改めようと思いました。
確かに課題はたくさんあります。
だけどそれだけ見ていては、生徒に勝手にラベルを貼っている可能性もあります。
生徒のポジティブな可能性について、もっと先生と話したい。
あえて言葉にし、再認識することでコミュニケーションが変わることもあるんじゃないか。
そう思ったのです。
また非言語コミュニケーションは影響力が大きく重要ではあるが、
それさえできれば全てがうまくいくわけではないということは押さえておくべきでしょう。
能力があるかないかではなく、優秀かどうかではなく、
能力は誰にでもあり、優秀になれる可能性は誰だって持っており、
重要なのはその可能性を周囲の人が信じ抜けるかどうかなのではないでしょうか。
部下に、生徒に、子どもに、目の前の相手に。
みなさんは自分自身を振り返ってみて、どうですか?